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 夕焼けを見ていた。虹色の夕焼け。
 視野いっぱいに極彩色の夕焼け空がひろがる。山並みが真っ赤にただれているようだ。美しい景色というものではない。威嚇してくるような、あまりに激しい色合いだった。あまりにたくさんの色が乱れ散っているので、心が和むことがない。どの色も他とは調和せずに、引き裂かれたまま自分の色だけを主張する。無慈悲な彩りがあちこちから目を射ってくる。
 いや。夕焼けではない。
 何かが燃えあがり、燃え落ちるような空だ。
 怒号が渦になり、透き通る眼をした亡霊たちが、殺せ、と叫んでいるのだ。殺せ、と。おれを煽りたてるのはやめてくれ。おれは殺していない。おれは殺さなかった。おれに、殺せ、と怒鳴るのはやめてくれ。
 宙吊りにされた人形が燃えている。髭、眼鏡、ぼんやりした顔の輪郭がかろうじて判別できる。黒のモーニング姿で足はひどく短い。そいつに炎が移ってめらめらと燃えあがっていた。だれだか知っているか、あいつを。ああ、おれの眼のなかで追放された人形が磔になったのだ。おれには燃やす勇気などなかった。恐怖に凍りついたまま見ているのが精一杯だった。おれはソノコトに加担するほど肝っ玉がすわってない。
 犯した罪によっておれを裁くな。
 犯さなかった行為の故におれを訴追しろ。
 …………
 「おい、まだらボンチ。まだらボンチよ、大丈夫か」 遠くで声がする。

 夜遅くに出て、ハイウェイ・バスに乗った。すいていたので、二人席の空きに横になってゆっくり眠ることができた。夜遅く駅前を発ったのに、目の奥に燃えるような夕焼けの残光がこびりついていて落ちないのは、何故だろうか。かれはいぶかしんだが、答えは見つからなかった。鼻の奥につんとガソリンと催涙ガスの混じったような刺激臭がついて離れなかった。
 起きると、朝になったばかりの首都だった。八重洲口の地下の公衆トイレで顔を洗って、歯を磨いた。駅の売店でパンと牛乳を買ってホームのベンチで食べた。終点のない山手線に乗ればいつまでも休息がとれると聞いたことがあったので、乗りこんだ。しばらくして席があいた。すわると眠気がきざしてきて、じきにおぼろの状態になった。一周するのにだいたい一時間かかることがわかったときは、まだ眠り足りない気分だったから、もう一周することにした。
 ……あの夜、まぼろしを見たのではないと確かめたくて、芝居が終わったあと、声をかけられてテントに残った。酒が酌み交わされるまでには、かれの決心は定まっていた。
 カラス小僧は素顔に戻ると、いくらかは親しみのもてる顔つきだったが、近づくには気遅れがあった。芝居空間の印象があまりにきつすぎた。中尉役の鬼首はメイクを落とすと、もっと凶悪な表情をしていたので、そばにも寄れなかった。台本の露人も、物静かなタイプに見えて、話しかけるのをためらってしまった。病院の公演のときに言葉を交わしていたスキンヘッドと役者顔とが、もっぱら相手をしてくれたのだ。
 スキンヘッドは芝居では贋天皇の役だった。名を熊沢といったが、芸名なのか本名なのかわからない。さいしょのときとは打って変わって、愛想良く、芝居で不明だったことなどを親切に説明してくれた。役者顔は児雷也といって、ホモ芸人の役だった。
 酔いがまわるにつれ、児雷也は、いつもの人を魅了するような口調でさりげなく入団を勧めるのだった。
 「あんた芝居やるために生まれてきたんちゃうか。絶対おもろい芝居できるわ」
 その言葉にちょっとでも動かされなかったといえば嘘になる。調子のいいやつだと心の隅では感じていたにしろ、また、役者が勤まるなどと自分を過信することはなかったにしろ、芸達者の男にもちあげられて虚栄心をくすぐられたのだ。
 以来、天馬団の芝居のことは、日置高志の頭から離れなくなった。寝ても醒めてもという言い方があるけれど、夢のはざまに芝居の一シーンが横殴りに現われてくることが多かった。忘れようとしてもすでに、夢の時間軸がかれらの住む舞台とねじれた回路を結んでしまっていたので、かれは、自分が役者たちといっしょに夢魔のステージに迷わされているような錯覚に陥っていた。
 ひどく物哀しい風体の楽隊が通りを歩いていく。ギターをつまびく者、トランペットを吹く者、クラリネットを吹く者……。着ているのはボロか、カーキ色をした軍服だ。亡者たちは、漆黒の闇より暗い瞳で彼方を見つめ、一度ばらばらにちぎれてしまった言葉を新たに捩り合わせるかのようにがなりたてる。かれが亡霊たちを夢に見ると、必ずかれ自身もその一隊のなかにいるのだった。楽隊がとぼとぼと歩いていく先に、炎に包まれた人形が宙吊りになっている。
 夢をくぐり抜けた先に燃えあがる人形が吊されているので、かれには、燃える人形が夢の世界には属していないように思えてくる。覚醒はいつも不安を伴っていた。かれはどこに身を置いていいのか定かでなくなる。自分は実在というよりも、いっそう、夢が通過していく管のようなものに近いと思えていた。夢をしまっておく容れ物ですらない。なぜなら夢が通り過ぎていったあとは、たんに空っぽの管にすぎないのだから……。
 瞼の奥に燃える人形が現われるたびに、電車がホームにすべりこむさいのブレーキ音が響き、かれは現実に引き戻された。夢の半身はどっぷりと非現実の光景に占拠されていて、おれは東京にやってきたのだ。山手線の座席の直角さが、そろそろ腰の負担になり始めていた。
 退院は許可されたが、病状が好転しているという自覚などなかった。じっさいカウンセラーの中山からは、ちょっと外泊するくらいのつもりで楽に考えろ、と助言された。中山を介して聞いた藤堂医院長の意見も似たようなものだった。「あかん思ったら、いつでも帰っといでや」と。感謝の気持ちは言葉に尽くせなかったが、しかし、かれはもう戻る気はなかった。外でも生きられるという自信があったからではなく、自分は天馬団に入るのだと思うとそれだけで他のことはどうでもよくなっただけだ。病気は治らなくてもいい、という気がしていた。治るか治らないかなど、瑣末な問題にすぎないとすら思えてきたのだ。
 まだ眠れそうだったが、電車にすわっている姿勢も限界に近づいていた……。
 ふたたび戻らないと決意していたので、退院してからの身の振り方とか連絡先とかを、病院のだれにも教えないで済ませた。必要ないと思ったからだ。院長はそんな思い詰めを知ってか知らずか、無理に問うてはこなかった。だれに見送られることもなく、祝福されることもなく、日置高志は、山に囲まれた乳鉢の底のような暗い街をあとにしたのだった。もしそういっていいなら、捨てたのだ。
 成人してから、帝都へ来たのはまるきり初めてのことではない。彩りも臭いもしない街。ただ途方もなく大きく、そして人ばかりがやたらに多かった。だがここが自分の生まれ育った場所なのだと、かれは自分にいいきかす。この帝都の片隅で、かれは強く望みもしない生を享けたのだった。
 聞いていた天馬団の稽古場は、省線でしばらく西へ行った駅からかなり歩いた外れにある。教えられたとおりの道を歩いてしばらくすると、家並みはとぎれ、一面、畑ばかりの道をすすむことになった。二十分ほど歩いて少し汗ばんだ。舗装されていない砂利道に入った奥に、急勾配の藁葺き屋根をいただいた農家があった。ここだ。都会で見ると、文化財にもなりそうな古色蒼然とした農家だった。門も塀もなかった。敷地のなかに入っていくと、庭ともいえない草ぼうぼうの空地に、わずかに通り道らしい跡が母屋のほうにつづいていた。かたわらには芝居に使った鉄パイプが雑然と積まれて、シートで覆われていた。これも芝居で使われたらしい散髪屋の螺旋回転灯が、場違いに立っている。
 左手にはプレハブ小屋があった。
 玄関にあたる引き戸は珍しい紋様で飾られた格子戸だった。引き戸をあけると土間になる。がらんと静かで、人の気配がまるで感じられなかった。
 土間に入ってすぐのところにあまり上等でない木製の机があって、その上に旧式の輪転機が置かれている。謄写版のセットも横にあって、インク特有の臭いがプンとたちこめ、机の上から土間にまでザラ紙の印刷物が散乱していた。裸電球が一個だけぽつんと灯って、昼も夜もなく薄暗い一角だ。
 左側は靴脱ぎ場で、履物は見当たらない。上面曇りガラスの引き戸は閉まっている。
 だれもいないのだろうか。
 土間は広々としていて、正面には土壁の仕切りがある。右手に三歩ほど行ったところに、ガラス戸のなかに部屋があるようだ。声をかけてあけると、だれかの個室らしい。猛烈な体臭が臭ってきた。主はいないが、二畳くらいの部屋そのものに体臭が乗り移っているらしく、息が詰まるような強い臭気だった。
 土壁の向こうは台所のつくりだった。使われていないかまどの跡があり、台所というより煮炊き所といった古風な名称がふさわしい。プロパンガスのボンベと小さなガスコンロが置いてあるだけだ。おそろしく暗く、とても毎日の炊事の用はなさないように見えた。
 左側には、壁ぎわに洋ダンスが置かれていた。開き扉をあけると、背板が取り去られた向こうに一畳半ほどの部屋がつづき、布団が敷かれていた。人はいない。ドアのかわりに洋ダンスを設置したのだろう。
 土間をつっきると、開いたままの裏戸があって、外に出られる。裏手の正面に白い土蔵がある。扉はぴったりと閉ざされて、外側からつけられた南京錠がはまっている。住人は外出中ということらしい。
 土蔵と裏戸のあいだには焚き火の跡があった。脇にすすで汚れたブロックがいくつか転がっている。ここで煮炊きもするらしい。
 草が伸びきった先の右方向には、みすぼらしい一間ばかりの小屋があった。異臭が漂ってくるのは便所だからなのだろう。
 母屋に沿って左に行くと、格子戸が二つ並んでいた。ここにも独立した小部屋があるのだ。どちらにも人はいなかった。手前の部屋は四畳半ほどで、真ん中にこたつがでんと置いてある他は何もない。奥の部屋はきちんと整理され、戸棚に本やレコードが並んでいる。この建物のなかでは唯一といっていい文化的な暮らしに見えた。 日置高志は、母屋にもどって、玄関のところの靴脱ぎ場から部屋にあがった。十畳はあるだろう広い場所だ。鴨居のところに暗幕がカーテン代わりに張られている。その奥にも同じくらい広い部屋があった。奥の間の右手にさらに引き戸があって、そのなかは二畳ほどの板間になっていた。大きめの納戸とも物置ともいえそうだ。
 びっくりしたのは、その板間の端の床が半分しかなく、そこからコブだらけの一本の古木が突き出ていることだった。古木は床より少し上のところで無残にも断ち切られている。電動ノコギリが残した人工的な断裂線が妙に白く痛々しかった。
 入ってきたところの十畳の間の奥にも、ガラスの格子戸に仕切られた三畳の部屋を見つけた。使われていないようだった。数えたところ母屋のなかに、大部屋はべつにして、六個の小部屋があって、土蔵にもだれかが住んでいるようだ。今はどの部屋にもだれもいない。
 日置高志は、放心したように畳の上にすわった。あらためて見ると、宴会のあとが片づけられないままに長くほっておかれた状態だ。食べ残しの皿やコップや空の一升瓶や汚れたワリバシや吸い殻で山盛りになった灰皿などが散乱しているし、こぼした酒をじっとりと吸いこんだらしい畳の一部にはまだ湿り気が残っている。腰をおろす場所を捜すのが一苦労だった。エロ漫画雑誌の上に置かれた鍋の中味は、腐る寸前らしく、得体の知れない臭気を発していた。
 天井は高く寒々としていたが、信じられない不潔さだ。部屋にあがったとき、かさこそと音がしたのは、ゴキブリがいっせいに隠れる音だったらしい。雨戸がぴったりと閉められているせいで、昼と夜の区別もつかず、肌寒くなってくる。
 身体も心もだるかった。深夜バスで高速道路を数百キロ移動したあいだぐっすり眠り、それから山手線二周分は断続的でもほぼ眠り通した。それでも不思議なことになお眠たかった。外国旅行で時差ボケが出るのと同じで、外の世界になじむのに暇がかかるのかもしれない。帝都に来たことが、外国にも似た遠さだと感じたのか、外の世界に一人で踏み出したことが感覚の違和をもたらしているのか、どちらとも判断できなかった。あるいは、訪ねてきた稽古場にだれもいなくて、宴会の残骸が悪臭を放っているだけという事態に、気分が尖ってしまったのか。失望したわけではない。みなが働きに出ているのなら、昼間だれもいないのも当たり前のことだから。
 異変はただひたすら懈怠によって現われ出てきた。
 かれは強烈な睡魔に引きずりこまれていった。
 胎児のように丸くなって、かれは眠った。
 ……電話のベル。
 どこかで執拗に鳴っていた。かれは奈落のようなはざまに漂って、ベルを聞いていた。大通りを曲がって住宅地の一角に歩をすすめると一斉に電話が鳴りだしたのだ。合図。しかしだれも答えることのない電話だった。かれは出ようとしても、出られない。もがいても身体は動かない。そのうちに電話は切れた。
 日置高志は、めざめて、電話のベルがぷつんと切れる気配を聞いた。ここは稽古場だった。だれかが稽古場にかけてきて、長く鳴らしていたが諦めたのだろう。口のなかが発酵したように熱をもって、いやな臭いをかもしていた。
 日置高志は外に出た。裏手の暗い道を行くと、土手のように小高くなったところがサイクリング・ロードに整備されているという。そんな方には行きたくなかった。表通りに出れば、交通量の多い幹線道路が走っていて、ドライヴ・インとコンビニと新興宗教の本部とが並んでいた。方角などまるでわからない。駅から長く歩いてきた道をもどって、少しは賑やかな商店街に出るしかないと思った。迷わずに済む道は他に知らなかった。
 どんよりとした薄曇りだが、夕暮れの時間だとわかった。ここには山という壁がなく、地平線がなだらかに拡がっているだけだ。山に囲まれていないという解放感が意外と大きいことに驚きをもった。帰るところがないのだと痛切に思うが、不安はもうない。稽古場には眠る場所を確保できる。もっとひどいところにだってごろ寝したことは幾度もあるから、心配はしない。
 歩くうちに、病院でいい仲になった夕子のことを急に思い出した。
 夕ちゃん、好きやで。思うそばから忌ま忌ましくなって、ケッと唾を吐く。くされオメコが……。
 夕子の、かれにたいする好意が、疑いようもなくなったのは、やはり芝居の稽古のときだった。何くれとなく世話をやく女房のように、いつも斜め後ろにいてくれる感じだった。べつに世話をやくような具体的なことがあるわけではない。秘密めかして目配せするたぐいの甘えが露骨になっていく。陰りがなく、ころころと笑う女だと思っていたが、好もしくみえる性格もよく知ると、そこにいかにも病院患者らしい困った点がいくつも見つけられるのだった。
 けれども、あえて不快なところは無視して、かれは夕子を性欲の対象として確保できるという見通しのほうを優先した。何回か、そしてかれは夕子と性交渉を持った。一度などは、病院の建物の裏手で暗がりにまぎれて立ったまま、あわただしく交わった。夕子は行為のとき騒がしく、あらぬことを喋りちらすので、口を手でふさいでおかねばならなかった。満足とはほど遠かったが、長く女の肌から離れていた日置高志は、慣れるのに時間がかかるかもしれないと思ったのだ。
 しかし、夕子は性交渉にだらしないだけではなく、行為そのものにだらしないとわかってくるにつれ、興味が冷めていくのは如何ともしがたかった。行為の仕方は散漫で集中することがなく、つまらないことを口にして笑ったり、投げやりな動きと狂ったように腰を振り立てる貪欲さとを交互に示して、かれを当惑させるのだった。情緒のかけらもない肉欲に向き合わされるようで不快になった。たんに行為が下手というより、欲望の意味を自分でもまるきり理解していないようなのだ。夕子がつながったまま喋ったり笑ったりするたびに、声が女の身体の空洞をつたわって子宮から響いてくるので、ずいぶんと気が散った。商売女を買ったときの外れのケースみたいに幻滅するばかりだった。
 「おまえ、もうちっと集中してくれへんけ」
 ムードつくりのためにラヴホテルを使ったけれど、女のいい加減さは変わらなかった。かえって室内の調度が珍しいので、挿入したあとでも口数が減らず、かれは無駄な出費をしたことを後悔するはめになった。
 夕子には退院を知らすまいと決めていたが、狭い病院のなかで隠しておくには無理があった。結果は、予想もしなかった愁嘆場だった。むしろ彼女は、慰みものにされて捨てられるという役柄を必死で演じることにしたのだろう。いかにも夕子らしいオーバーな、それでいて型にはまりすぎた平板なお芝居だった。周囲は冷ややかに取り巻いていた。そこでかれは、彼女のお相手が患者仲間のうちに一人や二人ではなかったという見えすいた事実に、遅れて突きあたったのだ。すると勝手なもので、まるで自分の性器で女の汚い性器の垢をこすり落として掃除させられたかのような、侮辱された想いが残ってしまった。
 いくら泣かれても自責の念など起こりようがなかった。やはり夕子は問題ありの病人ではないか。入浴のとき、とりわけ念入りに性器を洗うくせがついたのは、それ以降のことだった。かれはまた唾を吐いた。
 商店街にさしかかっていた。
 日置高志は、一軒の薄汚い焼鳥屋を見つくろって、暖簾をくぐった。
 カウンター席について、ホッピーと肉豆腐と煮込みと焼鳥のハツと軟骨とを頼んだ。ホッピーを飲んで、先にきた肉豆腐を平らげ、ホッピーを飲んだ。次に出された軟骨の白い串焼をこりこりと齧っていると、急激に奥歯の痛みが襲ってきた。突然の歯痛は計算外だった。
 今日は酔わなければならないと思う。
 かれの奥歯の二本には虫食いの穴があいている。痛みがきたら、ジンかウイスキーのストレートを穴に垂らして、痛みを騙してきた。穴ぼこがあいて、ウイスキー・ボンボンの外殻のチョコレートみたいに頼りない奥歯だが、きつい酒精が命中したときには、神経の束がぷるぷるとふるえて、痛みのなかに複雑で豊かな感覚が起こってくるはずだ。とりあえずは早く酔うために、三杯、四杯、とホッピーを飲み干していった。
 しかし酔いがどろんとなまぬるい。痛みの激しさは、いっこうに緩くならない。酒屋を捜して一瓶買って、ストレートでやるしかないかと思いはじめたとき――。
 奥の座敷のほうで騒がしい声が起こった。
 店員が、一人の小柄な男の襟首をつかむようにして、追い立ててくる。目は半開きの状態で赤く濁っているところは当たり前の酔っぱらいでも、特徴は、顔の中央の赤鼻とその下のぶ厚いくちびると頭のてっぺんの逆立った赤茶けた髪の毛だった。知っているやつだ。
 店の者が荒い声で非難すると、男は答えた。
 「わし、食うてへんで」
 まちがいなく聞き覚えのある声。
 松吉だった。どうやら無銭飲食を責められているらしいが、状況がどうなっているのかわからない。こいつは金を持っていないのか。
 日置高志は酔眼を向けて、松吉の怯えたような半分とろんとふさがった目をとらえた。けれども松吉は知らんぷりで目を逸らせる。いつもの「おまえはおまえやんけ」を発しなかった。見も知らぬ相手だとでもいいたげに、そっぽを向いてしまう。
 「何があったんですやろ」
 店の者に尋ねると、たちまち胡乱なまなざしが返ってきた。見ての通りです、とか木で鼻をくくったような返事しかしない。おまえの知ったことではない、と態度で示しているから、仕方なく直接聞くことにした。
 「松公、どないしたいうんや」
 すると店員の様子が一変した。
 「おまえも仲間なんか」
 げっそり、と松吉が声をあげた。
 どうやらこいつ、かれのことを巻きこみたくなくて、知り合いではないふりを通すつもりだったらしい。しかし日置高志のほうから友達だとバラしてしまった。何の不都合があったかわからない。店の者は、かれの胸ぐらをつかまんばかりの勢いで、くりかえした。
 「聞いてるんだ。おまえも仲間なのか」
 「なんや物騒やなあ。わしはずっと一人でここで飲んどったんやで。知っとるやろが」
 「べつべつに飲んでても、こいつらの仲間には違いないんだな。まったく」
 「そやったら、どないしてんや」
 「お友達の勘定がまだなんですわ」
 「はー、さよか」
 「責任持ってもらえますか」
 「そんだけのことかいな」
 「だから、どうなんです」
 「はろたるわい。それでええんやな。なんぼや」
 また、松吉の「げっそり」が聞こえてきた。
 店員はかれの肩にごつい右手をさりげなく置いて、勘定書をつきつけた。かれはゆっくりと数字を見て、表情に出かけた驚きをけんめいにおさえた。なんじゃ、これは。金額を三度たしかめてから、つとめて平静な顔つきを保って、かれはいった。
 「はろたったらええのやろ。もう一杯飲むさかい、連れにもお代りやったってくれ」
 かろうじて今の所持金で足りるのが幸いだった。しかし――。この手の赤提灯にしてみれば、べらぼうな金額だった。どうやったらこんな金額になるというのだ。いったいこの野郎は、うわばみのようにざっと十人分を飲み食いしやがったのだろうか。それも一人で奥座敷で。
 席のとなりにすわらせた松吉に、さっそくその不審をぶつけた。勘定書の数字をもう一度たしかめる。
 「ほんまに間違いやないのか。一ケタ多いのとちゃうのか。おまえ、何か因縁でもつけられてんのか」
 かれは喋りながら、自分の勘定ともども踏み倒して逃げる算段を心づもりし始めた。こんな非合理な勘定を払わなければいけない道理があってたまるか。松公の野郎は逃げ足は早いのだろうか。どう見ても敏捷さからは縁がなさそうだった。この種のことは、競艇場のボートと同じで、スタート・ダッシュにすべてがかかっている。捕まればそれこそ派出所に直行させられるだろう。おれは逃げられるが、松公は逃げきれないかもしれない。そういう行動に賭けることは、友人をおとしいれるにも等しい選択だろうか……。
 「伴内、余計なことすな」
 「余計なことて、おまえ」
 「みんなで飲んどったんや。気がついたらだれもおらへん」
 「なんやってぇー」
 妙な説明だった。さらに尋ねて質してみると――。もともとは、天馬団の連中、十数人で飲んでいたということだった。調子があがるにつれ、いたるところで口論が起こり、やかましい以上に収拾がつかなくなった。まず鬼首と熊沢が殴り合いで決着をつけよう、おお、ということになって血相を変えて表に出ていく。どうついたのか知らないが、二人はそのままもどってこない。次には露人がケバラという男ともつれるようにして表に出た。残った者も静かになるどころか、新たに怒鳴り合いをはじめる始末で、嫌気のさした松吉は一人でピッチをあげて飲みに飲んで、ごろりと横になったところ、いつの間にか座卓の下で寝入ってしまった。
 「結局、残ったのは勘定書だけか」
 「わし、ほんまに食うてへんのや」
 松吉らしい、呆れた言い分だった。
 「そやかて飲んだんやろ。寝てしまうほどに」
 「三本しか飲んでへん。寝たのは寝不足がつづいてたからじゃ。あいつらの話も聞きとうなかったし。耳ふさいでただけなんや」
 「ほうけ。無情なやつらやな」
 座敷のなかで暴れなかっただけでもましか。一組、二組と、殴り合いに飛び出していってしまい、ついにみんないなくなって、ふて寝した松吉だけが残された。すべて十数人分の飲み食い代を押しつけられる恰好になったわけだ。
 日置高志は、それほど紛糾したという喧嘩の元について気にも止めなかった。もう少し松吉に問えば、後戻りのきかなくなった亀裂のかずかずを教えてもらえたかもしれない。そのときすでに天馬団は、集団として崩壊への坂道を転がりはじめていたのだ。だがどちらにしても、かれに地すべりをくいとめる力があったわけでもなく、早く聞けばどうなるというものではなかった。