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久しぶりという感覚が、正確に測って、何年という単位になるのか、わからない。わからないという状態に慣れることは難しかった。病院から西部講堂前広場まで来て、天馬団の芝居を観たのが一年前だった。一年という歳月は、そこに詰まった多くの修羅から考えれば、短く去ってしまったともいえるが、渦に巻かれて過ごした只中では濃密で恐ろしいほどに引き伸ばされた時間だった。けれどもその一年をはさんで振り返ろうとすると、やはり元通りの空白のときがあった。空白しかなかった。
いったいおれは病気から回復したのだろうか――。日置高志は想った。正常な精神がもどったのだとすれば、その正常さとは何なのか、少しもわからない。病院に入らなくてもいい状態だという自信はあったけれど、それならどうしてかれの記憶は一部が空白のままなのか。理由はだれにも説明できないように思えた。
病院を離れた当初は、漠然と狂気を怖れる気持ちから自由になれなかった。ところが狂気というのはそれ自体つかみがたい代物で、明瞭な定義などない。どんなに品行方正な人間にだって隠れた狂気のパン種は眠っている、という理解がもし真実であるのなら、逆にこういうこともいえる。――どれほど常軌を逸した狂人にだってごく正常な精神を示しうるときが、瞬間であろうと長い時間であろうと、必ず訪れているのだと。それなら、狂気とは、ひどくいいかげんな概念でしかないではないか。
じっとうずくまって狂気を怖れているとき、おれは狂気の外側に狂気の観察者として立っているのか、それとも、狂気の内側に狂気の主体者として、つまり真正の狂人として立っているのか。……わからない。この肝心の問いに答えられなければ、おれは自分が狂人なのかどうか判断できないということになる。
不安や怖れはだんだんと薄らいでいくことを知った。けれども不安や怖れから自由になることが、つまり回復と一致するのだ、とはとても思えない。治ることはそんなに簡単なのだろうか。記憶がもどらない状態とは、いまだにかれが狂人だという証しではないのか。狂人でも人並みの暮らしはやっていける。日常生活に支障をきたさないという意味では<欠陥品の狂人>か。下手なジョークを思いついても笑えなかった。
機動隊にやられた頭の傷は覚えている。しかしヘルメットは被っていたし、後遺症の自覚症状などは出なかった。かれは、稽古場やドヤで過ごした日々、一人の時間があるときは、絶えず記憶の点検をするのが常だった。くりかえしその作業をするうちに、自分の空白期間をだいたい算定できるようになっていた。空白とは、行動の記憶が、喪われているということだ。病院に入った時期は退院のときに教えてもらった。一九七五年の二月だ。さかのぼって、記憶の残っている場面の日付けを呼びもどしてみると、いつも同じところに突きあたった。
あれは一九七二年の八月だ。釜ヶ崎で、あの奇妙な存在感のない男、律儀な契約殺人者の報告を聞いたときだ。やつは行方未知を殺し、それと連続して内ゲバの誤爆を受けたのだった。やつはおれに何も見返りを要求しなかった。交換殺人という契約のコインの裏面を見たいとはいわなかったのだ。
その時点から連続してこない……。やつはかれの前から消えてしまった。というより、消えたのはかれの記憶なのだから、やつはどこにも消えていないのかもしれない……。
計算すれば、七二年の八月から七五年の二月までの、二年と七ヵ月が日置高志のなかで空白になっているのだ。 根拠の弱い想像に苦しめられるときはあった。あの男の要求した殺人を、自分は受けて、じっさいに手を下して実行しているのではないか。コインの裏面はきちんと支払われているのではないか。そして記憶に欠陥が生じたのは、その実行のさいの不測の事態と絡まった原因があるのでは……。そんな想像は、かなり強くかれを苦しめた。契約が両面とも済まされなかったとすれば、あの男がそれを要求してこない理由がないからだ。
しかしその想像を打ち消す論拠もきっちりとあった。人を一人殺して追われないで済むほどこの国の警察もだらしなくはないだろう。それとも、かれは、よほど巧妙な完全犯罪によってその女だか男だかを始末したのか。そんな方法を思いつき、かつ実行するほどの才覚が、自分にあるとはとても思えない。
ときおりかれは、自分はその期間、存在していなかったのではないか、という非合理な感覚に囚われることがある。アメリカ製のSFにあるような話で、冷凍睡眠の措置をとられていたとかいう状態。馬鹿げた想像でも、答えのない苦しみよりはましだった。その答えに問題があるのは、信憑しきるだけの現実性がまったくないという点だ。それともむかし読んだフランスの小説に、一日おきにしか存在できないマルタンという哀れな男の小話があって、気に入っていた。人間にはごく稀にそういう変種が生まれてくるのではないか、と思うこともある。おれにはゼノンという呼び名よりマルタンという呼び名のほうが似合っていたのだ、きっと。滑稽なことに、日置高志の人生からは、二年七ヵ月の日々が忽然と消え去ったままなのだ。こんなつくり話はだれにも信じられそうもない。与太話なら、もっと気の利いたものがいくらでもあるではないか。
……また、ぼんやりと考えごとにひたっていると、肩をはたかれた。
「“コロンビアを彷徨って”。そんな唄あんのか」
知り合ったばかりの店の男がいった。あとで、トウちゃんという名前を教えられる、無愛想なやつだ。
「“ロール・オン・コロンビア”や。ええ語呂しとるやろ」
日置高志は答えた。
マルディグラという店名のブルース喫茶のなかだった。 場所は、京都に着いてから道を覚えていたロック喫茶のダボハウスに顔を出して、教えてもらった。その男がいうには、さいきんの京都はブルースの風が吹いているのだそうだ。酒蔵を改造したライヴハウスも二軒できていると教えられたが、そちらは後回しにした。寺町今出川の先を少し西に入った路地にある、古い京風の民家をそのまま使った店らしくないたたずまいに決めた。
あそこは客も主も左やで、と教えた男はさいごに秘密めかしたように囁いた。ほうか、左なんか。
軽く答えておいたが、さっそく好都合な場所に当たったと感謝したくなった。鬼首がこうした公然とした場所に痕跡を残すとはおよそ考えられないし、私服も潜りこんでいるかもしれないが、足がかりの出発点には利用できそうだと計算した。
来てみると、玄関を入って靴を脱いであがる畳の大部屋に、ソファや籐椅子が雑然と置かれている。壁際の棚には政治的なものも非政治的なものも取りそろえて、かなりの点数のミニコミが並んでいた。喫茶店というより、ミニコミ書店とフリースペースとに重点がある。
かれは戸口から入ったとき、強い既視感にとらわれてびっくりした。ここは――。あの焼け落ちた天馬団の稽古場にしごくよく似ていた。ずっと小ぎれいで求心力があるけれど、何というか、発している臭いがまったく同質だった。たぶん鬼首もいちどは必ずここに来ているはずだ。そうに違いない、と確信を持った。
飲み物はセルフサービスで代金はカンパとして受け取るという。これだとふつうの客筋は来ない。予想した以上に使える場所だと思った。店の者も十年来の友だちのように話しかけてくる。くわえ煙草で、おう、なに飲むねん? とそんな調子だ。聴きたいレコードはいくらでもあるようだ。一日中いても飽きない場所が早くも見つかって嬉しくなった。
まずはブルースの話から入っていこうと、いろいろリクエストしてみたが、トウちゃんは怒ったような受け答えでかれを失望させた。あとで聞けば、その愛想のなさも理由があった。店主の好みの極端さを見抜けなかったかれが迂闊すぎたのだ。
「メロディはあれや。“グッドナイト・アイリーン”や。レッドベリーの」
レッドベリーの名に少し表情が和らいだが、依然、硬い声でトウちゃんはいう。
「だれえ、だれが唄うとんね」
「カントリー・ジョー・マクドナルドやがな。でもフィシュのアルバムには入ってないと思うよ。ウディ・ガスリーのメモリアル・アルバムあるやろ。わし、あれで聴いたんやわ」
「それならある。掛けたる。待っとけ」
ぶすっとした顔で立ちあがろうとするトウちゃんに、日置高志は、うろ覚えの知識を吹きこもうとする。
――これは友だち捜して街をうろつく男の唄なんや。ロール・オン・コロンビア・ロール・オンのリフレインがまるで、オール・アローンみたいに聴こえて、哀しいやろ……。
言葉なかばでトウちゃんは立っていってしまい、失敬なやつだと思ったが、そこに、それはちゃうで、と横にいた男が割りこんできた。
「それはちゃうで。友だち捜して歩くのは、同じ“グッドナイト・アイリーン”のメロディ使うた“ランブリン・ラウンド”や。ランブリン・ラウンド・ユア・シティ、ランブリン・ラウンド・ユア・タウンの語呂まわしの使い方はいっしょやけど、なんぼランブリン・ラウンドして捜しても友人には会えへんいうブルースや」
うらなりのように顔の長い男は、かれに馴染みのメロディを巧みに口ずさんだ。
「わしの今の心境やねん」
「わかるで。せやけど、間違いと勘違いは他人のはじまり、いうやろ。“ロール・オン・コロンビア”はホーボーの唄や。移動労働者の唄や。おまえ、IWWて知ってるか」
男は、日置高志には理解しがたい三〇年代大不況時のアメリカの労働運動の話をべらべらとしゃべった。
話が一区切りついたところで、日置高志は、多羅尾伴内いいます、あんさんは?、と自己紹介した。
男は直接には答えずにべつのことをいった。
「カントリー・ジョー・マクドナルドがウッドストックに出おったときに、ファックの四文字のスペルをいってみなって、叫ぶ唄があるやろぅ」
「“みんな死ね”やね。ワン・ツー・スリー・フォー、ワット・アー・ウイ・ファイティン・フォー。おれらは何のために戦争させられとんねん、いう唄や」
「わしのことはテリーて呼んでくれ」
「店のやつ、いつでもあないな喧嘩腰なんか?」
「なんや、おまえ、トウちゃんに喧嘩売ってたんとちゃうのか」
「なんのこっちゃい」
「あいつホンキイのブルースなんて全部認めへん男や。ホンキイて知ってるよな、白人のこと。おまえがあんまりしつこう、白人のブルースマンの話ばっかりするから、腹がさしこんで下痢しそうな顔しとったやないけ。ローリング・ストーンズかて、聴いてたら屁が出るいうて、聴きよらへんやつや。わしはまた、おまえが知ってて挑発かけてんのかと思って見物してたんや」
「わざとやないよ。すると、あいつを怒らせることばかりいうてたんか。わし、現実世界に適応しにくい男なんやなぁ」
「深刻に考えんなや」
何となく意気投合して、マルディグラを出ても互いに別れる気になれなかった。フレアーのジーンズにプリントのTシャツ、革のサンダルに肩までの長髪と、恰好も瓜二つだった。顔の長さの分だけテリーのほうが上背があった。
飯でも食っていこうと、二人は定食屋に入った。
「あこは長いんか。初めて会うたなあ」
テリーが、ほうばった鯖の味噌煮から小骨をより出しながら、訊いてきた。とりとめもない話をしていたが、ようやく、こちらの背景にまつわる質問に入ってきたようだと感じた。まるで警戒心など持たない者だとかえって困るから、こうした人定質問も早く済まして欲しかった。
しかし、この種の質問が案外わずらわしいことに思い当たってしまう。何をしていた? 劇団にいたが、そこでしたことは身を削るような会議、話合いだけ。そして稽古場は燃えてしまった。――そんな答えが相手にどう取られるだろう。日置高志は、鼻の横にある大きなほくろに指をすべらせた。
「いや、ほんまのさいきんやねん。しばらく東京おったからな」
今日の朝にバスで着いたところだ、とはいわなかった。テリーがその話題にもどってくるのは、食べ終わって歯をせせり、一服つけたときだった。
「東京はどないや」
「点と線やな」
「むつかしこと、いうな、おまえ」
「京都は小さい円や。東京に持っていったら二十三区の一つにしかならへん」
「せや」
「わし、生まれはあっちなんや。東京もんや。京都は原住民とちゃうねん」
「流れもん、か」
「流れもんやったらカッコええけどな」
じっくり見ると、こいつの顔は鼻がひときわ長いのだと知った。またしばらく雑談をかわしてから、テリーは思い出したようにいった。
「泊まるとこなかったら、わしとこ来いや」
「ええのけ。助かるわ」
テリーはかなり西の方に歩いたところにある下宿に案内してくれた。白い土塀のつづく寺の境内に長屋のような棟が横たわっていた。入ってみると細かい仕切りで部屋割りが区切られていた。通路は狭く、天井の低さは寄せ場のベッドハウスを思わせるものだった。
その一つ、「しがらみ亭」とイラスト文字にある紙をドアに張ったところが目的地だった。部屋のなかは見かけよりも広くて、長方形で四畳半に少し余分がありそうだった。板間だからにわかに面積の見当がつかない。長い辺の端にパイプ製のベッドがあり、反対側に布団が重ねてあった。書棚の大半を占めているのは政治方面の本に見えた。床にエロ漫画が五、六冊、投げ出されている他は整頓されているほうだった。折りたたみの安物の座卓の上もきれいなもので、丸いニクロム線が渦になっている電熱器があるだけだった。一方の壁に外人女のヌード写真がべたべたと貼りつけてある。
「まあ、自由につこうてくれや」
そういうとテリーは、ベッドに腰をおろし、指で煙草を吸うまねをして、持ってへんか、と尋ねた。マリファナがあるかどうか訊いてきたのだ。この男なりの試験をして、かれは合格だったらしい。宿を借りるのだからクサくらい分かち合うのが礼儀だったが、あいにくとかれはその方面にまったく疎かった。
「すまんな、持ってへんのや」
テリーは大げさに失望をみせて、ベッドに仰向けにひっくり返った。低い天井に視線を這わせて、ぶつぶつと一人言をいい、一人言にまじえて“ヘルプレス”のフレーズを少しコードを外してコピーした。そしてしばらくすると立ちあがって不機嫌にいった。
「わし出てくるわ。勝手に寝とって」
背中が、「マリ」も持ち合わせない不調法な居候め、と苛立ちを語っていた。そこがじつはテリーの住処ではなく、テリーの連れの住処なのだということは、次の日になるまで知らないままだった。一週間くらいなら厄介になってもいいだろうと勝手に思っていたが、次の日には計画は崩れた。しがらみ亭のドアをあけて、おう、と入っていくと、まるで知らない男がベッドに寝そべって煙草をくゆらせていた。
「おう、おまえか」
男はびっくりしたように口をポカンとあけた。顔のやたらにでかい男だった。えらも顎も直角に張って、直線で輪郭をたどれる広大な顔のまんなかにおとなしい山羊を思わせる小さな目がおさまっている。顔以外の身体は貧弱で、クレープのシャツとステテコから細い手足がのぞくだけだ。丈もあまりなさそうだ。
「わし、テリーの連れやねん」
と説明したときも、日置高志は、その男も居候なのだと思っていた。話が何往復か行き違って、かれは、やっと自分がほんとうの部屋の主と話していることを得心した。悪気はないことを謝らねばならなかった。相手は鷹揚に、自由に使ってくれたらいい、とテリーがいったのと同じことをいった。
「気にすなや、伴内」
男の言葉に、ちりちりとニクロム線が赤くはじけるように、不思議な空間の裂け目が走ったように思った。何だ。この男、どうしておれの名前を知っているのか。かれがその不審を口にすると、男はこともなげにいった。 「おまえ、名乗ったやないけ」
「ほうやったか」
返事では肯定しながら、違うと思った。たしかにかれはまだその男に自分の名前を告げていないはずだ。話が行き違っていたことに焦って、名乗る機を逃していた。たしかにそうだった。
だが男はさらに面妖なことをいった。
「そやけど懐かしなあ。おまえにここで会うとは思わなんだ。どないしとってん」
「えっ、なんやて?」
この男はなにか決定的に勘違いしているようだった。だれかと人違いしているのだ。けれどもそれなら、かれの名前をあらかじめ知っていたらしいことの説明がつかない。酔っているふうにも、クスリでラリっているふうにも見えない。何をいっているのだ、こいつは。
かれの反問には答えず、男は立ちあがった。思ったとおりに小柄だった。
「まあええわ。わしは風呂行ってくる」
「……」
考えがまとまらなかった。
「暇やったら、そこらへんにあるエロ本でも読んどれや。けっこう来よるで。あ、いうとくけど、せんずりは飛ばさんといてや、ここでは。本にもつけたらあかんで。ぱりぱりになってあと読めへんから」
「……あんさん」
「なんやね」
「あんさん、名前なんていわはった?」
すると男はふたたび驚いたように目を丸くした。
「わいの名前か。おもろいこと聞くなぁ、おまえ。おまえ、ほんまにおもろいやっちゃ」
意味不明の言葉を言い捨てて、男は出て行った。
茫然として残されたかれの頭は空白だった。空白に何か定かでない信号が送られてくるようだが、それをはっきり掴むことができない。あの男、だれなんや。日置高志は、その時期からしばらくかれを執拗に追うことになる、海の波のようにくりかえされる同一の疑問に立ち会わされたのだった。それは京都にもどってくるやかれの胸ぐらをねじあげ、一つの覚醒にかれが達するまで引き回すことをやめなかった設問だ。答えを求める気はあったとはいえ、そこに直面することは、答えを知らなかったほうが良かったという絶望をもたらさずには済まなかったのだ。
することもなく、かれは、散らばっている『漫画エロトピア』とか『漫画エロジェニカ』とか『漫金超』とかを手にとってめくってみた。ヌードのグラビアは平凡だったが、漫画のダイナミックないやらしさにガーンと衝撃を受けた。半端ではない迫力に生唾が湧いてくる。知らずに息があがって目を放せなくなった。ところがめくっていく途中で、ページがごそっと一かたまりになって黄色く変色しているところに当たった。はがそうとしてもはがれない。部分的にはまだ湿り気がある。思わずかれは漫画本を取り落とした。ゲッとおぞましさに、吐き気がこみあげてきた。
あの男、人にはするなと注意したくせに、ズリネタにしたときにぴゅっぴゅっと出たものを本で受けてしまったのだろう。乾いてこれだと、ものすごく溜めてやがったのだ。あの骨ばった身体のどこからこんなに出てくるものか。自分の手になすりつけられたような気分で、げんなりしてきて、もう他のものも見る気は失せた。
そのうち男が銭湯から帰ってきて、カップヌードルを食わないかと誘った。金は払うというと、水くさいことすな、と一蹴された。わりとすぐに気づいたのは、この男とだとあまり話がはずまないという事実だった。男とのあいだに不透明な疑問が置かれている障碍があるのとはべつに、単純に気が合わないし、共通の話題も見つけにくいのだった。音楽は趣味ではないようだ。おれのことを知っていると主張する男との会話がとどこおるという展開は奇妙だとしか思えない。やはり単純な人違いがおかしなふうに絡み合っているだけなのだろうか。
書棚に目をやって、自分の読んでいそうなものを探した。レーニン、トロツキー、マルクーゼ、宇野弘蔵、谷川雁、太田竜、平岡正明……。なじみの名前はほとんどなかった。
ぽつぽつと興の乗らない話をかわしているうちに、男は疲れているから寝るといいだした。
「昨日は三発もやってんや」
疲れている理由を聞きもしないのに説明したが、じつは自慢したかったのかもしれない。
漫画本のページをべっとりと黄色く糊づけしたのは、どうやらこの男ではないようだった。どうでも良かったが、確認して、かれは煙草に火をつけた。
静寂が支配し、男はもう寝入ったのだと思えたころ、声がした。
「なあ、伴内よ」
かれのほうも布団を敷きのべて横になっていたところに呼びかけられて、ビクンとした。
「なんやね」
「伴内よ、おまえほんまにわしのこと覚えてへんのけ」 すぐには答えられなかった。男の言葉は明晰で誤解しようがなかった。この男とおれがかつては知り合いだったといっているのだ。おれが覚えていないふりをしているとでもいうのか。口調はしっかりしていて寝惚け半分の発音ではなかった。答えを探すうちに、すやすやと寝息が聞こえてきた。気にかかっていたことを吐き出して、やっと眠りについたという様子で、それだけ言葉の真実さを証明しているようでもある。
男の名前を訊くと、知っているくせにどうして訊くのか、とそんな態度を示したのだった。男の超然とした様子が、よぶんに疑問をふくらませるので、その夜はなかなか眠りにつけなかった。
次の朝、起きて灰皿のシケモクに火をつけると、男は裁判官のようにいった。
「今日はちょっと付きおうてくれへんか。会わしたりたいやつがおるんや」